巣鴨・大塚を舞台にシェアハウス、シェアオフィス、イベントスペース、託児所などを展開し、多くの人の拠り所でありながら、互いを高め合うコミュニティを作り続けているRYOZAN PARKオーナーの竹沢徳剛氏。
竹沢氏の特徴はなんといってもそのワイルドな風貌と、周りの人を引き込むその器の大きさです。
今回のインタビューでは、そんな竹沢氏の価値観を形成した幼少期からアメリカへ渡った学生時代、RYOZAN PARKを立ち上げることになったきっかけから、現在の取り組み、今後の展望までを伺いました。
豪快な一面を持ちながらも、その根底にあるのは仲間を大切にする温かい心であり、
「みんなと一緒に楽しいことをやる」
という少年心とも言えるものでした。
体の大きな少年は、国際政治の中心ワシントンへ

生まれたのは駒込で、2歳から12歳くらいまでは、鬼子母神前というところに住んでいました。
小学生の時は、当時から体が大きくて多動なところもあって。
みんなに「遊ぼうぜ」と声をかけようとして触ったりするだけで、周りの子たちは殴られたと思って泣き出してしまうような、極めて誤解を招きやすい子どもでした。(笑)
家の近くには、学年で一クラス30人しかないような小さめの小学校があったけど、両親から
「こいつは小さいコミュニティにいたらダメなんじゃないか」
って心配をされましてね。
その小学校には通わずに、祖父母の住んでいた実家の近くにある巣鴨の仰高小学校というところに通っていました。
都電と山手線を乗り継いで通っていたから、当時から大塚駅は毎日のように使っていました。
その後中学1年生の時から大学を卒業するまでは、ずっと巣鴨に住んでいました。
自分の幼少時代を振り返ると、ずっと人に囲まれた生活をしていたように思います。
母方の祖父が製造業の会社を営んでおり、住み込みで働く人達もいて、そういった人たちと一緒に食卓を囲むことも多くありました。
小さい頃から、一人で過ごすよりも日本人でありながら多様なバックグラウンドを持つ誰かと一緒に過ごす時間の方が多くて、それはやはり今の価値観にすごく繋がっていると思いますね。
大学では法律、特に国際法や国際政治を学びました。
その後、それらをもっと勉強したいと思い、世界の政治の中心であるアメリカ・ワシントンD.C.に行き、大学院に進みました。
その時、アメリカではちょうど大統領選挙も行われていて、オバマ大統領の選挙活動を手伝うという貴重な経験もしましたね。
自由の国・アメリカに魅せられて
就職活動では、アメリカで行われるボストンキャリアフォーラムという就活イベントで、日本の大手総合商社に内定をもらい、日本に帰ってきて入社しました。
でも、新卒内定者の集まりでネクタイを締めて、スーツを着て、満員電車の銀座線に乗った時に、頭をガーンとぶつけたりなんかして。
そこでもうサラリーマン生活の息苦しさを感じましたね。
せっかくアメリカに行って自由な空気を吸っていたのに、日本に帰ってきてサラリーマンになって、資本主義の駒になっている感じがして。
それが嫌になって3日間くらいで会社を辞めてしまいました。
そして、逃げ戻るようにしてアメリカへ戻ることになります。

その時に、ニューヨークにいた人材派遣会社の社長さんがたまたま拾ってくれて、ワシントンD.C.とかニューヨークエリアで日本人向けに記事を書く新聞の記者にならないかと誘ってもらって一緒にやることになりました。
でも、ワシントン在住の日本人は官庁や名だたる大手企業、大手メディアで働く人がほとんどでした。
そんな中で、自分みたいなどこの馬の骨かもわからないようなやつが髭を生やしてぷらぷらしているもんだから、当時は同じ日本人たちから怪しい目で見られたりもしていましたね。(笑)
それでも、向こうでは日米協会の会長などに可愛がってもらったりもしたり。
アメリカに戻って、自由な人生を再び取り戻した感じがしました。
そんなタイミングで、2011年の東日本大震災が起きました。
コミュニティ作りを通して日本を懐の深い社会へ
2011年に日本で東日本大震災が起こって、その時にアメリカでCNN、ABC、FOXなどのニュースメディアのインタビューを受けることになったんです。
「アメリカにいる日本人はこの震災をどう思っているのか」
みたいな質問をされました。
街が津波に飲み込まれていく様子や、原発が深刻な事故に陥った惨状を映像で見るしかなくて、今すぐにでも体を張って助けに行きたいけど、日本とは通信もままならず、何の力にもなれない自分がもどかしい、としか言いようがなかった。
そして、日本の復興にはアメリカをはじめとした世界の人たちの協力が不可欠であろうというようなことも話しました。

その後、やっぱり自分自身も何かやらなきゃいけないと思い立ったんです。
そして、僕と同じように少しでも日本の復興の手助けをしたいと強く願う日本人留学生や日本にルーツを持つ外国人留学生たちと一緒にファンドレイジングを始めたんです。
みんなで寝る間も惜しんで、募金活動や情報発信を行いました。
当時僕は28歳くらいだったけど、一緒に活動をしていた仲間たちは、19歳とか20歳の大学生でした。
日本にルーツはあるけど国籍は違う国といった、とにかく様々なバックグラウンドを持った学生たちが
「祖国のために、日本のために」
と、強い気持ちを持って一生懸命活動している姿に、とにかく心を打たれましたね。
これには、アメリカという国の多様性を受け入れる力、他者を巻き込む力というものを強烈に感じました。
こうした経験が、やはり日本ももっと懐の深い社会になっていかないといけないと、
僕が強く感じ始めたきっかけです。
そのために、まずは自分が生まれ育った巣鴨・大塚で
・世界中の様々なバックグラウンドを持つ人間
・日本でチャレンジしたいと思う人間
・若くて志のある人間
が集まるコミュニティを作りたいと思って、帰国を決めました。
元々、実家の持つ一棟貸しをしていたビルが空いてしまったというピンチでもチャンスでもあった縁も重なって、そのビル全体を40人ほどが住めるシェアハウスにリノベーションすることになったのです。
そして、中国の小説『水滸伝』の「梁山伯(りょうざんぱく)」から名前を取って、
『RYOZAN PARK』
と名前を付けました。
志の持った人たちが切磋琢磨して、どんどんチャレンジしていこうという想いを込めています。
そこでは、楽しいことだけじゃなく、悲しいことやしんどいことがあったら、それも共有して労り合っていける共同体を作ろうと思いました。
仲間と一緒に作り上げていくコミュニティ
今年でRYOZAN PARKを作って、14年目に入ります。
コミュニティ作りをする中で、大切にしていることは有機農業的なコミュニティ作り。
有機農業では、微生物がたくさんいて、その微生物が反応し合うことでその土壌も豊かに育っていきます。
このRYOZAN PARKというコミュニティでも面白い人がたくさん集まって、
それが共鳴し合うことによって化学変化が起きて、最終的にこの巣鴨や大塚の街が元気になって、このコミュニティーが豊かになって行く。
そんなコミュニティ作りを常々目指しています。

やっていて良かったなと感じる瞬間は、それはもうたくさんありますね。
やっぱり一番は、シェアハウス内で結ばれて結婚したカップルがたくさんいること。
元々、シェアハウスに入ってもらうにあたって大切にしているのは、
「この人と一緒に酒が飲めるか」。
僕自身が一緒に酒が飲みたいって思うような仲間同士が結ばれるわけだから、それはもう嬉しいですよね。
そうして、これまでに20組以上のカップルが結婚して、30人以上の子どもが生まれています。
そうなったら次は、子育てと仕事の両立をサポートしたい。
子どもの成長としっかり向き合いたい、でも仕事もしなくてはいけない。そんな働く母親・父親を応援したい。
そんな想いで、ここRYOZAN PARK OTSUKAでは、託児所付きのシェアオフィスを作ることになりました。
南大塚のURBAN GREENも、採算を考えるとワンルームマンションを作った方が良かったかもしれない。
でも、結婚して子どもができても、みんなで助け合えるようなファミリー向けの部屋が欲しいという声があって、それを受けて向こう三軒両隣が縦になっているような集合住宅を作ろうということになりました。
RYOZAN PARKの仲間たちがどういう形で働きたいか、どういう形で人生を歩んでいきたいか、
それをどんどん言ってもらって、それを実現していく。
RYOZAN PARKでは、そうやってみんなでコミュニティを作り上げていくことを大切にしているし、
それを実現することにとてもやりがいを感じています。
最近は、一人でいる時間が好きだという人や、結婚をしないという人も増えています。
でもここRYOZAN PARKは、良いも悪いもいろんなことをみんなでシェアして支え合っていく、拡大家族のようなコミュニティを作っていきたいとは常々思っていますね。

たくましく生きていく子どもをみんなで育てる
RYOZAN PARK OTSUKAにはモンテソーリのプリスクールを併設しているのですが、これを作るのも簡単な道のりではありませんでした
最初に作った認可外の託児所ということもあり、国や行政からの補助金はなく、それでももちろん保育士さんを雇ったり、守らなきゃいけないルールもいくつもあったりして、赤字での運営が続いていました。

それで、どうにかしなきゃいけないという時に、スコットランド人の私の元妻と、RYOZAN PARK内で結婚し子どもも授かった、元小学校教師の近藤直美さんが立ち上がってくれて、協力してここを英語教育を行う託児所にしようというアイデアが生まれます。
僕自身もアメリカに行っていた経験があるから、英語を話せることによって世界中のどこに行っても友達を作ることができることの強みを身に染みて感じていました。
世界のどこに行ってもたくましく生きていく子どもたちを育てるためには、英語教育は絶対に必要です。
英語教育といっても、暗記させるような詰め込み型の教育を行うのではなく、コミュニケーションの中で自然と身に付けていくということを大切にしています。
頭でっかちに英語を勉強するのではなく、コミュニケーション能力も身につけてもらいたい。
それが、世界のどこに行ってもたくましく生きていける力に繋がると考えています。
こうして、英語教育を行うスクールにしたことで、他の託児所や保育園との差別化にもつながり、多少のコストがかかってでもそれに見合う教育が提供できるようになり、それに伴って利用希望者も増えてきてくれましたね。
現在ではNPOとしての法人資格を取り、独立し、近藤さんたちの頑張りで、自立した経営ができるようになってきました。
アフリカの諺に、
“It takes a village to raise a child.”(一人の子どもを育てるには、村全体の協力が必要だ。)
というものがあります。
RYOZAN PARKのつながりの中で生まれた子どもたちを、
RYOZAN PARKという村のみんなで一緒になって育てていく。
そんな空間になっていって欲しいと心から願っています。
大塚の昔と今、そして再開発に対する思い
大塚という街は、昔も今も元気がある街ですね。
サンモール商店街などを筆頭に、顔が見える人たちが一生懸命頑張っている。
夫婦で一緒にやられている飲食店なんかも多くて、丁寧に作られた素敵な料理をいつも楽しませてもらっています。
派手さこそないかもしれないけれど、味わい深い街だと思います。
そしてとても人間的な街。
南口には商店街があって、魚屋さんや八百屋さんもあれば、北口に行けば大人のお店もあったり。
外国人も多くいて、全く排外的じゃないし、それらが程よいバランスで共存していますよね。
僕なんかは隣の池袋に行くと、その人の多さや雑然としている感じに元気を吸い取られてしまうことがあるけれども、ここ大塚は元気を与えてくれる街なんじゃないかと思います。
お気に入りのお店といえば、まずは、3代も続く魚屋の『栃木屋魚店』。これは大塚の魚を提供する飲食店を完全に支えてくれていると思いますね。
そして、居酒屋の『みや穂』のランチのラーメンもすごく美味しい。
あとは、ミシュランも獲得している『焼鳥蒼天』。
ここには皇族の友人もお連れしたことがありますよ。

そんな歴史の背景もある中で、今少し話が上がっている大塚の再開発については、不安に感じている面も正直ありますね。
他の地域を見ても、歴史と伝統のある他のどこにもない個性を持っていた街が、再開発によって一見オシャレで便利な街になってはいるものの、以前の個性が消えてしまい、均一化されてしまっている光景をよく見ますよね。
街が均一化されていくと、そこにいる人間もどんどん均一化されていくのではないでしょうか。
再開発によるメリットも確かに理解はできますが、その中でもこの街の個性を守り続けてほしいし、守り続けたいと思っています。
RYOZAN PARKが向かう先
実は、ここRYOZAN PARK OTSUKAの隣地を購入したんです。
その土地を使って、新たなビルを増設しようと思っています。
隠れ家的なバー、ジム、ライブラリーカフェ、さらには託児所を拡張させたり、もちろんテナントさんに入ってもらったりということも考えています。
1階にはギャラリーにも入ってもらって、通りすがりの人がふらっとアートを楽しめる空間になることを願っています。

そこで、南大塚のURBAN GREENを手掛けてもらった、平田晃久さんという建築家の方に今回も設計をお願いしています。
URBAN GREENを作る時には、僕の趣味である山伏修行で訪れる岩場をイメージして建物を設計・デザインしていただき、何十回となく重ねたやり取りの中で僕のやりたいことをどんどん形にしてくださる方です。
今回は、童話の『ジャックと豆の木』のツタをイメージして作ってもらおうと思っています。
RYOZAN PARKはインキュベーションオフィスの顔も持つので、若き起業家たちも多数集まっています。
そんな起業家たちがどんどん豆の木のような階段を登っていって、
さあ金の卵を取りに行くぞと、
そういう志ある人が集まる空間になってほしいという想いです。
既存のRYOZAN PARKもこれから作る新たな建物も、ゆっくり育てることを大事にしています。
これは私の趣味の筋トレに近いです。
筋トレ初心者がいきなりベンチプレス100kgを上げようとしても危ないし、怪我をしますよね。
一歩一歩、着実に成長していく。
手の届く範囲で少しずつ生み出したものを大きくしていきたい。
そういう気持ちを大事にしています。
あとは、曽祖父の代からこの地域で建材業を営み、今年で101年。
僕で4代目になります。
これまでここで100年間歴史が続いてきたので、これからの100年もここで歴史を紡いでいきたいという想いが強いです。
大塚を一言で表すなら?

「君の命が最も深く響く街」です。
サン=テグジュペリの『人間の大地』というエッセイ本があって、そこに
「人間は縛れているものの中でしか、本当の自由を見つけることができない。君が縛られているその土地こそが、君の命が最も深く響く場所だ。そこでどんな音を鳴らすつもりだ」
という一節があって、とても胸を打たれて思わずスマホにメモしてしまいました。
僕もある意味、この巣鴨、大塚といった土地に縛られていると言っても良い。
そして、そこでどんな自由を見つけるのか、どんな音を鳴らすつもりだと問われているんです。
そんな、自分の命が最も深く響くこの街で、今後100年間も続くような「東京の村」を作り、大切に育てていきたいと思っています。

